[ REPORT ]
 

「ひっぴい♪♪スペシャル in 東京」を覚えてますか?主催者の攝津さんが、このイベントの報告をまとめてくれました。「ひとの性別はどうやって決められるべきか」という、簡単なようでじつは難しいテーマです。

 乱立する光源のただなかで──「男女という制度」を組み替える

攝津 正 .

性別の自己決定権

 2003年5月20日から26日まで都内各所で催されたひっぴい♪♪スペシャル in 東京が終わった。日比野真さんは、「正解」を強制するのではなく、一緒に考える過程を大切にする態度で私たち参加者一同に接し続け、無神経な問いかけや的外れな質問にも粘り強く対応してくれた。このワークショップを通じて、最も多くを学ぶ幸運を得たのは勿論、全日程に参加しえたスタッフだった。主催者であった私自身が、多くの固定観念や不要な枠組みから解き放たれるという経験をした。

 一週間のワークショップが取り上げたテーマは多岐に渉り、パレスチナ問題から社会運動団体内部における権力闘争や性暴力までが扱われた。ここでは、そのすべてを逐一取り上げるのではなく、私自身が震撼された「性別の自己決定権」という考え方など幾つかを挙げるに留めたい。

 インターネットで検索してみたところ、1998年7月号の現代性教育研究月報で、針間克己氏が、「性別の決定にあたっては、体の性別よりも生物学的基盤を有すると推測される本人の性別の自己認知を決定基準にすること」を論じて「性別の自己決定権」に言及したのが最初の用例のようである。しかし、最近出版された米沢泉美編著『トランスジェンダリズム宣言』(社会批評社、ISBN:4-916117-55-7)においても、日比野真さんのワークショップにおいても、「性別の自己決定権」の概念はより幅広く、徹底的である。

 日比野さんによると、4つの性別概念がある。1つめは、性染色体や性腺、内性器や外性器の形状などで決められる、生物学的な性別。2つめは、戸籍上の性別。3つめは、他者がその人をどのように判断するかという意味での性別。4つめが、自分で自分の性別をどのように定義するかという意味での性別。日比野さんは、自分で定義する性別、自己決定されるべき性別こそが尊重されるべきである、とハッキリいっている。

 その理由は簡単だ。関西のセクシュアル・マイノリティのコミュニティで生きるうちに、どこからどうみても「女」にしか見えないのに「僕は男だ」と頑として言い張る人(或いはその逆)、また「男」とも「女」とも分からない人に多く出会ってきたからなのだ、という。

 そもそも、1つめの生物学的な性別は、世界が男と女「だけ」で作られているという思い込みをむしろ壊してしまうものである。身体のあり方には無限の多様性があり、たとえばインターセックスの人たちがいて、世界に住まっているのは男と女だけではないことを実証してくれる。

 また、もともとは男性のもつ身体で生まれてきたのに、ホルモン投与や手術などさまざまな手段で、女性にしか見えない身体を獲得し、かつ当人も自分を女性と定義するようなトランスセクシュアルの人たちもいる。

 さらに、男性からトランスして、他者からは女性と見られないことが多いにせよ(=ノンパス)、自分のことを敢えて女性と定義する、ノンパス系・非埋没系のトランスジェンダーの人たちがいる(1)。

 日比野さんの自己紹介のページにもあるような、「MtX」という概念もある。MtFとは男性から女性へ、FtMとは女性から男性へトランスしようとする人たちのことである。「MtX」については、関西のセクシュアル・マイノリティのコミュニティではポピュラーなのだというけれども、私は初めて聞いたのでとても驚いた。男性でも女性でもなく、「X」に向けてトランスしていくとはどういうことなのか。「男女という制度」そのものを問題化し、男であることも女になることを目指すのでもない何ものか──ということなのか。

 この考え方は、男女=性別という制度にがんじがらめになっている日常を少しだけ掘り崩せるかもしれないという淡い希望を抱かせてくれる。私たちは権力諸関係の網の目のなか、「諸制度」のなかで生/性を紡ぐよりほかないのだから、そのような現実的諸条件を一挙に超出する「宇宙的亡命」のような夢想は問題外にせよ、制度を少しだけ揺るがせるアクションや倫理=習慣の形成、すなわち「抵抗」は現に多様に存在している。見ようとするならば過剰に溢れており、見ないならば見えることは決してない。身振りや声、服装や仕草、その人を構成する微細な動詞的な線の総体がミクロ政治の場での対抗である。

 4つの性別概念の幸福な一致が崩壊した世界において、それでは性別を何によって決めるべきだろうか。自己決定に委ねるのでないなら、専門家(医師や生物学者)や他人(世論)の権威に自己を従属させることになる。性別の自己決定権を認めるならば、どう見ても男(女)には見えないがしかし女(男)であるような人、或いは、もはや男でも女でもない人たちとともに生きることを選択することになる。

 「性別の自己決定権」の支持を選択することは、「世界市民へのロードマップ」がいうようなカント的「啓蒙」、書籍、権威者、医者への従属(未成年状態)からの脱却のみならず、フランス啓蒙思想のもともとの意味での「啓蒙Lumières」にも合致する。ディドロ研究者である田口卓臣氏のご教示によれば、「Lumières」の原義とは、「知性、知恵、知識」であり、それは何より、「Lumière=光」の複数形である(より詳しくは寺田元一『編集知の世紀』日本評論社、ISBN:4-535-58346-3を参照)。したがってここでいう「知性」とは、乱立する「光源」(知)を前にしてひとはいかに対処するか、ということに関わっている。私たちの文脈では、乱立する光源とは、性別とはかくかくしかじかの手続きで決定されるべきだと称する、性科学的或いは道徳的な言説のことである。その乱反射のただなかにあって、自分の生のありようをめぐる倫理的な営みがある。自分は暫定的・可変的にであれどのような者で、仮に愛するとしたらどのような人を愛するのか、という問い、内在的に生態を問う問いを問い続けることにとどまらず、目の前にいるかもしれずいないかもしれない識別不可能な「他者たち」を尊重する姿勢をとり続けることができるかという問いをたえず問い続けるという意味での倫理がある。

 性別を生き、考えるなかで私たちは、啓蒙および倫理に出会った。しかしそれのみならず、この認識は、闘争を招来する。『トランスジェンダリズム宣言』が明示しているような、戸籍制度、住基ネット、母体保護法第二八条との闘争なしには、私たちは倫理を実現することはできない(2)。また、法制度の問題だけでなく、経済的な格差の問題もある。女性とみなされる者は、男性とみなされる者に比べて、平均賃金は約半分であるという(3)。そのような現実が厳としてある以上、「性別の自己決定権」という概念は、必ずしもユートピアへの鍵であるだけではなく、国家、資本、地域社会、家族等々が強制してくる「男女という制度」に抗い、積極的な生/性━━生の様態と関係性━━の発明・生産によって自由を獲得することを目指す対抗運動への呼びかけでもあるのだ(4)。


(1)「パス」については、たとえば、この用語集を参照。「「望みの性」で社会的に通用すること。FTMならば他人から男性と判断され、女性またはFTMと思われないこと。MTFならば他人から女性と判断され、男性またはMTFと思われないこと。」埋没系/非埋没系とは、主に社会通念との関係における主体的な態度の違いを指す。社会が明示的に或いは暗黙に強制する「男らしさ」「女らしさ」の諸規則に従って「男」や「女」を生きるか、或いは、意志的に諸規則から逸脱しそれを問題化する態度を取るか、という選択の問題がある。

(2)米沢泉美編著『トランスジェンダリズム宣言』(社会批評社、ISBN:4-916117-55-7)pp189-201。たとえば戸籍制度については次を参照。

 そもそも戸籍制度は、世界に例を見ない国民管理制度であり、「家族」という日本的文化に親和性の高いシステムを通じ、国民を把握・管理する制度としてある。戦後の改訂により戸籍は「家族」そのものを単位として扱う形ではなくなってはいるが、「一夫一妻」婚姻の管理を通じて血統関係を把握するという根幹はそのまま保持している。夫婦別姓どころか、国連機関から「人権抑圧制度であり解消されるべき」と指摘されている婚外子差別すら未だになくなっていない。そしてこのことと、「戸籍の性別は性染色体で決まる建前」という裁判所の言い分は完全にリンクしている。
 血統・婚姻管理という戸籍制度の本質を維持するためには、性別は生殖機能で決定されなければならないし、同性愛や重婚は認めてはならないし、家族単位の管理を「乱す」婚外子や戸籍管理の及ばない外国人との間の子は差別されなければならないのである。(pp190-191)

 母体保護法第二八条の規定は、「何人も、この法律の規定による場合の外、故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行つてはならない。」

 元来、自らの性別は自らの申告によって決めるべきものである。日本においては、それを社会的な側面で阻んでいるのは戸籍法であり、医療の側面で阻んでいるのは、母体保護法第二八条である。したがって、トランスジェンダーが医療的側面での国家管理から自由になるためには、第二八条は削除すべきである。(『トランスジェンダリズム宣言』p198)

(3)厚生労働省のホームページ内の「第1−5図 所定内給与額と男女間賃金格差の推移」を参照。また、「平成14年版働く女性の実情」によれば以下のようである。

男女間の賃金格差は、長期的にはきまって支給する現金給与額、所定内給与額のいずれについても緩やかな縮小傾向が続いており、男性を100とした場合、女性の平成14年の所定内給与額は66.5となっている(第1−5図)。

(中略)

 パートタイム労働者と一般労働者との賃金格差は49.7であるが、女性パートタイム労働者と女性一般労働者との賃金格差について、平成14年の一般労働者の所定内給与額を時給換算したものを100.0としてみると、パートタイム労働者は64.9と、格差は拡大した(第1−7図)。

(4)ひっぴい♪♪スペシャル in 東京および『トランスジェンダリズム宣言』が示唆するのは、「男女という制度」を問い直し組み替えるというのは、心理学の問題というよりも、政治や経済の問題、権力諸関係の自覚やその組み替え、経済的諸条件の自覚と代替案の提起の問題だということである。セクシュアル・マイノリティは就学、就労の場面で不利な状況におかれたり、部屋を追われることもある。具体的な状況を実践的に変えていく知恵や技術の集積と公開が求められている。

攝津正

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