[ TCX特集 ]
 

「老人ホームで桶を作るのを見て」 キムラゴロー

老人ホームの余暇活動の様子がテレビに映っている。

そこに暮らす女性たちが、なにか作っている。指導するひとも
来ているらしい。
新聞の折り込み広告を材料にして、手桶のようなものとか・・・
そんな飾り物のあれこれ。

じつをいえば、わたしはその“手桶”を見て、なにか寂しいもの
を感じてしまったんです。

確かに、どんなものでも「こしらえる」ということには楽しみが
ありますよね。そしてまた、その女性たちにとっては、みんな
とのおしゃべりのひとときの「手持ち無沙汰」から、そうしてい
るだけのことかもしれないし。(だから、そんな彼女たちの行
為を深読みするのは失礼なことなのでしょう。)

それでもわたしは、広告チラシの手桶を“作らされる”姿に
悪い冗談のようなものを感じたのでした。

(ほかになにか作るものってないものだろうか?)

試しに、こんなことを考えてみる――

もしも、彼女たちの作っているのがなにか別な、、みんなが
欲しがるものだったら・・・そう、たとえば・・・・干し柿とか
雑魚の佃煮とかであったり・・・・あるいは、本物の手桶だった
りしたなら、楽しいだろうなぁ、って思う。
つまり、「売り物になるもの」
=「人が欲しがる物」
=「お金払っても欲しがるもの」
だったらどんなにか素晴らしいか、って。 

「売れる=買われる」 ということは、人にとって「自分の存在
が必要とされている」という充実感を強く感じさせる。
(もちろん、それが「必要とされる」ことのすべてなのではない
のだけど。)
歳をとっても経済的に「必要」を産みだしている、というのは
本人にどれほどの生きがいをもたらすことだろう。
しかし、わたしは現実にもどって考えなおす――

チラシの“手桶”を佃煮に置きかえるのは簡単ではないだろう
なぁ・・・・いやほとんど不可能と言うべきではないだろうか?
と。

資本主義の発達につれて、生産の現場は個人から工場ヘ、
ちかくの工場から遠くの国々へと場所を移している。また、
小さな資本からより大きな資本へと、モノとサービスの生産は
集中してゆく。
われわれが働こうとしたなら、それは「資本のもとで働くこと」
=「賃金労働をすること」でしかないでしょう(ほとんど)。

わたしたちがもし、加齢から(あるいはその他の原因から)
身体的な状態が企業での労働の“規格”に合わなくなったとき
にはわれわれはもう労働者ではいられないでしょう。つまり、
「価値」=「みんながほしがるもの(こと)」の創造者ではいら
れない。――これは資本主義のシステムの中で生きるわれ
われに与えられた条件なんですね。

この条件というのは、そんなに簡単に変えられるものでは
ないでしょう。企業は人間のうちでも“戦力”としていちばん
強い部分だけを使う。どこの企業でもそうする。そうやって
他の企業との競争をしているわけです。

だから、チラシ紙の“桶”は、本物の桶にはならない。なれな
いのです。もし、老人ホームの彼女たちが一念発起で起業
して、本物の桶を作ったとしても、それは中国の若者の作った
桶と市場で競争できるものではないでしょう。

わたしが先の映像を見て寂しい気持になったのは、
老人ホームで暮らす(または通う)高齢の彼女らが、
彼女らに与えられた「条件」を、
       (=われわれ皆に与えられた「条件」を、)
“確認させられている”ように見えたからなのかもしれません。
「規格にあわなくなりました」と、言わされているかのように
感じたのです・・・・広告紙の“桶”という、使い途もなく、
けっして美しくもないモノでもって。
(わたしの考え過ぎ、「感じ過ぎ」なのかもしれないけど・・・)

「広告紙の桶を本物の桶にする」・・・・
どうやらそれは私の妄想に過ぎなかったようです。

でも、
もしわたしに機会が与えられたなら、高齢の方と余暇活動の
内容について一緒に考えてみたいなぁ、なんて思います。
こしらえるならどんなものがいいのだろう?・・・・
う〜〜ん・・・・直接話してみないとわかりませんね。(笑)

(そして・・・・「価値」=「皆が欲しがること」ではなくても、
「誰か」=特定の誰かにとっての“価値”を生み出すこと は、
人間にはいつでもできることなのだ・・・・とも思うのでした。)



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