[ TCX特集 ]
 

ネギさんとキムラさんの対話「修理は経済的か?倫理的か?」

基調講演「修理は倫理的。経済的?」

みなさま、こんにちは。本日、講師を担当させていただきます、野菜大学のネギ
です。
テーマは、TCXに載っている木村さんの「修理と倫理」、ですね。

どうもこの題名が前から気にかかっていたのですね。駄洒落、というのは分かるのですが(笑)。TCXの標語で言えば、修理が経済的、というのは分かるのですが、修理が倫理的、というのはちょっと分からない。この題名のねじれ現象(?)が、妙に興味を呼ぶのです。

で、僕たちは倫理的、というのと経済的、というのをある意味両立できないアンチノミーとして考えていて、しかし、それを一緒に並べるのが面白いんだ、と思っていたわけです。

でも、最近考えていたのは、「経済的」というのは、実は「倫理的」なんじゃないか、ということです。たとえば、21というのはとことん経済的を追求した会社ですね。人事部も経理部も中間管理部門を無くして、情報公開をどんどんやって、稟議書も監査役もいらないぐらいにして、合理化を進めた。こういう経済的追求が、逆説的に倫理的な会社を作った。これが面白い。まあ、いつまでもそう続くのかは分かりませんし、めがね屋一店あるだけでもだめだし、また、その「経済的」な方法のいくつかは資本が新たな労働者再構築のために盗むような処方でもあるのですが、でも非常に面白いヒントがあると思う。

修理、というのも普通は経済的だから、ということでやるのですが、それが逆説的に「倫理的」になる、ということがあると思います。たとえば、私はとても木村先生の足元にも及びませんが、いくつか修理をします。これは貸家なのに、勝手に修理をしますが、それはつまり、細かい必要に応じて、改良していく、ということですね。つまり大もうけの商売にはならないが、しかし、埋もれがちなニーズを掘り起こして、改良していく。たとえば、我が家に住んでる二人はねぎだけあって背が高いので、しょっちゅう頭を戸口などにぶつける。それは「われわれ」だけのニーズなのですが、それに対応して修理をする。ほかにも、たとえば障害を持った人なども、自分のニーズに合わせて身の回りのいろいろなものを改造するのではないでしょうか。細かいいろいろ違ったニーズがある。それはまた使いながらでないと分からないニーズであるかも知れない。こういうのに「経済的」でありながら「倫理的」に対処するのは修理しかないのではないか。まあ、こんなことを考えました。こじつけ(笑)といううわさもありますが。

もう一つ、経済的、ということに関して、もう一言述べさせてください。経済的な見方、というのは、つまり「素直」にものを見ない、ということ、といえるかとも思います。この部分をちょっと変えたら、ほかのところも変わってしまう。たとえば、生産関係を変えたら、流通関係も変わるし、収支状況も変わってしまう、などなど。たとえば、第三世界で餓えに苦しんでる人がいる、すると、素直・道徳派は、救援物資を送れ、とか言いますね。するとどうなるでしょうか。彼らは救援物質を頼ればいいので、自分で働かなくなる。または、救援物質をめぐって、取り合いになる。横流し・汚職が発生する。状況はどんどんまずくなる。こういうことが実際にも起きています。

素直道徳派は、何か問題を見るとそれに対処療法を施そうとする。そういうことを超えるために必要なのが、「経済的視点」ですね。素直道徳派がWord的(今書いているところ、直しているところしか反応しない)のに対して、エコノミコは、Excel的なわけです。(一箇所直すと全体の関係が変わってしまう。)

経済学のほとんどの人は、実は素直道徳派、なんですよ。あるひとつの市場、あるひとつの要素だけを見て議論を組み立てている。つまり「近代科学」的。こんなのは、実際の経済にたずさわっている人には通用しないですよ。通用するのは、学者と官僚だけ。まあ、私も野菜大学の学者なんですけど。(笑)

実際に経営者になったら、同時に生産方式をみて、仕入れを見て、商品市場を見て、労働者の教育を考えて、資金繰りを考えて。。。しなくちゃいけません。そういう視点を少なくともマルクスは維持していましたね。

だから、思いもかけないところで、ウォール街のある経営者が、「結局のところ、マルクスが言ってることが一番正しい気がする」といったりしてましたよ。とはいえ、私が最初に述べたように、それだけでは単に経済的、エコノミコであるだけでして、倫理的、エチコ、ではございませんね。こういうところで、どうエチコ、を入れるか。ここで、修理、というのは面白い視点だと思うのです。

修理、というのはつまり原形をとどめなくなったものを「元に戻す」。ある意味、「維持可能な発展」といわれるようなものともつながっていくと思います。少し倫理的な視点が入ってきますね。同時に、あるものをもっと細かいニーズに合わせて調節していく、これは最初に述べたようなことですが、こうなると修理、というより改造ではないか、といわれてしまうかもしれませんが、こういうことも、倫理的、ということにつながっていくのではないか、というのは先ほど述べた通りです。

もう一つ、最後に付け加えますと、究極の修理、として、修理をしなくてもいいように、修理をしてしまう、(笑)というのがあります。たとえば先ほど述べた21という眼鏡屋では、ふちなしめがねが壊れやすい、フレームからレンズが外れてしまう、というようなことで修理を頼みに来るお客が多かったそうです。そういう消費者からのクレームを受けて、では、ということで、修理を必要としない、たとえば最初からフレームとレンズが外れているように、できている。そういうめがねを考え出したそうです。これはある意味、修理代を稼げない、ということで眼鏡屋には損なのかもしれませんが、全体として考えれば、経済的ですね。で、消費者からのクレームにオープンである、というのは、ある意味倫理的な行為なのではないでしょうか。

そういうことをよーく考えてみると、新しいものの新規開発、発見、というのは、これは全部「修理」なんじゃないか、という気がしてくるんですよ。何か天才が突然大発見をする、とかいうんじゃなくて、今まであるもので壊れやすいところ、とか、どうも不便なところ、とか、無駄なところ、こういうのを見つけ出して、少しずつ修理していく、これがやっぱり新規開発、ということにつながっていくわけですね。人は新しく物を書けるわけではない。今まであるいろんなテクストから引用して新しく織り込んだ、というようなことなのです、そういう説がありますけどね。新規に開発したんじゃない、修理したんだ、ということです。そうすると、新規開発したから特許権をがっちりもてる、というのも怪しい意見だな、と考えますが、そういうことを言い出すと、とても大きな話になってしまうので、今回はちょっと触れただけで終わりたいと思います。

というわけで、修理はやっぱり(経済的)倫理的である、ということで、これからも、経済的と倫理的の関係を考えてみたいと思います。もちろん、別に修理のみにこだわる必要は無いのですが、今まで経済学といった場合、小さく物と貨幣の交換、といったようなレベルだけ考えていたのですが、もっと広い、人間の生活、というようなもの、そのニーズといったようなことに関わらせながら、ある意味、そういった広い社会の中の一部として経済的、というようなことを考えていけたら、と思います。

修理に先生はいませんよ〜!

ネギさん、どうもありがとうございました。

いやはや、もう私の言うことがなくなっちゃいましたね・・・・
でも、なにか付け加えてみましょう。

えーと・・・・
さきほどのネギさんの講演の中で、私、「センセイ」をつけられておりました。
「センセイ」と聞いて、わたし思ったんですネ・・・・修理に先生っていうのは、コリャまったく合わないなぁー、って。

なぜって、修理“そのもの”って教えられるものではないんですよぉ・・・・だって、モノが壊れるっていうのは“向こうの方からやってくる”できごとですよね。それに、まったく同じに作られたものでも壊れ方は千差万別だから、「コレコレにはこんな修理。」というふうにはなかなか言えない。
そして、もっと重要なのは、ある人がそれを修理しようとするとき、それはその人のニーズに応じて直せばいい=“使う人”によって修理はいろいろ、(=たとえ“完全”じゃなくたってちっともかまわない、)ってことなんですよね。

そうだとするとですよ、
修理することっていうのは、、自分の“必要”(ニーズ)を識ることであり、次には、その“必要”を満たすように、今現在 自分の与えられたものたちを基に工夫をすることだ、って私は思うんです。だから、自分の眼で見て、自分の頭で考えることがなにより大事なことなのですね。

“不具合”は向こうからやってくる。ココだけ見れば受動的。けれど、修理するということは、能動的な“意識化と工夫”です。
このように考えるというと、そこには、「改造すること」と「作ること」とが自然とつながってきます。なにか修理していると、いつのまにか「改造」したり、「作ったり」してしまうのではないか、というふうに思われるのです――本人がそれと気付かなくてもね。


ところで、
ネギさんが触れたように、たとえば“地球の修理”という大目標(大問題)に世界市民のわたしたちがあたることを考えるとき、今述べたような修理の視点というのは重要ではないか、と思います。
それは現在あるものをもとに工夫するしかない、ということです。つまり、今日の地球環境の加速度的な破壊をもたらした原動力は、資本制のもとでの人々の活動ですね。
だから、われわれが少しでも根本的な治療を施そうと思ったなら、資本制企業という仕組みそのものを基にして、“少しだけ新しい”仕組みをそこに入れてみる、ということを考えねばならない、ということです。また、そのような(少しだけの)「具体的な仕組み」を考案しなければならないんですね。

(反対に、「まったく新しい世界の仕組み」のアイデアというのは、どんなに新鮮に見えても、けっして実現されることなどない夢でしょうし、それを現実にしようとしたら大きな犠牲を残すだけでしょう。)


えーと、、では、最後に、
「ヒャッキンの女王」(=100円均一ショッピングの女王のこと)とも呼ばれるある人のこんな言葉を紹介しましょう――「100円ショップは自分の価値観が試される場である」。
いい言葉ですねぇ〜。
彼女は100円ショップの商品を組み合せて、自分独自の家具(のようなもの)を作っているというんですね。
これ、いいじゃないですか!? これで、いいじゃないですか!? これだってもちろん修理、でしょ!?



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