[ REPORT ]
 

イラクで、アフリカで、世界中で医療援助に携わってきた神谷さん。難民キャンプの過酷な環境のもとでも子供たちはたくましい顔を見せ、援助する―されるという関係には疑問が挿まれます。神谷さんは「援助は風で良い」といいますが、その真意とは?

 アフリカと難民援助

医師 神谷保彦 .

1. アフリカの道

 アフリカの地道は、山あり、谷あり、泥沼と豊かな表情を持っている。車に乗っているものにはがたがたの悪路も、徒歩しかない地元の人にとっては車がとばさないから安全な道である。アフリカの地方で、道路が舗装された後、車のスピードが上がり、ニワトリやヤギがひかれるだけでなく、人の交通事故が増えた所は多い。地元の人には緊急チャーターフライトなどないから、事故の瞬間に生死が決まってしまう。第一、アスファルトの道では熱くて、裸足で歩けない。ザイールのルワンダ難民キャンプへの道も整備が始まった。
 朝、難民キャンプへの道を僕らが車で通ると、ザイールの地元の人たちは道端の草むらに身軽によけ、白い歯を見せて手を振ってくれる。夕方、宿舎への帰り道、お母さんが負い紐を額に当て、20kg以上のキャッサバの袋を背中に背負い、さらに胸の所で子供を布で抱え、その上お乳をあげながら歩いている。紐を額に当て荷物を背負うこの方法は、昔、八丈島や北海道でも行われていた。アフリカの他の地方では、荷物は頭の上に載せ、子供はお母さんの背中でガッチリと縛り付けられている場合が多いが、これでは子供は頭に直射日光を浴び、顔はタコのように歪んで汗だくになってしまう。さて、このお母さんは、僕たちの車が近づくと、畑仕事の帰りで疲れきり、荷物の重みで折れ曲がった身体をやっとのことでそらし、目だけを上げ、車の中を見つめる。車が走り去った後、巻き上がる砂埃の中で子供は砂を吸い込み、お母さんの荷物はいっそう重くなっている。難民援助が始まってから、地元の人がニッサンやトヨタの車に道を譲らないといけない回数が増えた。

2.アフリカの難民キャンプと援助

 難民キャンプのあるザイールキブ地方は、次の木陰まで後何キロ歩くのかといった灼熱のアフリカからは程遠く、豊かな緑に恵まれている。キブ湖の入り江の向こうに見える跳び箱のような白いテントのキャンプ風景も圧倒的な自然の中で違和感がない。キャンプの中で、難民と呼ばれながら暮らしている人たちは、治安と援助の名のもと、全員の姿が上から眺められるような監視管理下におかれているようにみえる。難民となって1年半が過ぎても、帰還の見通しが立たず、救援型援助(与えるー受け取るという形の援助)を受けざるを得ない状況にある。そういう援助は難民の依存性を高め、自立を阻害するといわれる。しかし、彼らは、その不自由さを跳ね退ける力強さを持っているし、援助に頼りきっているわけでもない。自分でできることはやっている。
 
 むしろ、援助を与える側にこそ、厳しい自己評価が求められる。帰還できず援助を受けることを強いられている難民の人たちに自立した生活やその維持を求めるのは難しいが、援助側は単にプロジェクトを維持するための活動にならないように、活動をしながらも、絶えず難民の人たちと一緒に、正確なニーズアセスメントとして、難民が主導してプロジェクトができるように彼らの能力を引き出すことに努力を傾ける必要がある。
ただ、実際、現場で活動していると、目の前に問題が山積みしていて、それをこなすのに精一杯になり、難民の人に任せるより、自分でやる方が楽な時もある。現場のスタッフの教える能力の向上と現場から離れた上層部による的確なスーパーバイズが求められる。

 キャンプの中で、子供たちに教えてもらうことは多い。学校で習う普遍的な知識ではなく、テントの間を走る路地の歩き方、メイズを臼で粉にする方法、薪の割り方、頭に物を乗せて歩く方法など、局所的な知識を沢山知っている。男の子たちと一緒にマルボローというビー玉遊びをしていたら、お母さんが、女の子は子守をしてくれるのに、男の子もちょっとはうちの仕事の手伝いをしろ、と怒りに来る。健康教育のときには、僕がお母さんに、手を洗え、子供に食欲がなくても母乳はしっかりと与えよ、といろいろと無理な注文をつけることが多いのに、お母さんの方こそ、当たり前のことを言っている。ところで、健康教育は、予防接種の前などに、集まったお母さんに教育するのではなく、診察室や家庭訪問で、一人一人のお母さんと、問題点を一緒になって考えていくのが良い。それでも、お母さんに病気の予防について話をしても、"There is no other way"(他にどうしろというの)と言われると、どうすることもできず、病気になったら来てもらうしかないのかと、健康教育の内容を実現できる状況のなさに躓いてしまうことが多い。

3.アフリカと日本

 キブ湖が、静かな膜を作って光っている。難民の一人は、湖水の上を歩いて、対岸のルワンダに帰れそうだと言った。その湖水の青に染まりながら、4才の女の子が、自分の体重の半分はある重さの水を背負って、山道を登っている。この水を持ち帰らないと今日一日の一家の生活が成り立たない。水汲みは、人間が昔からずっと営み続けてきた最も重要な暮らしの行為の一つである。日本でも昔は、子供たちが自分用に作ってもらった水桶を頭に載せ歩いていた。今や、日本の子供たちは、今日一日の生活ではなく、先の高収入の生活のために、重いカバンを手に塾に通っている。
 アフリカの田舎の夜は真っ暗だ。子供の病気を肌と寝息と泣き方で判断しないといけない。アフリカの人たちは僕たちほど見ることに頼っていない。難民キャンプのように診療所がそばにあればよいが、普通、アフリカの地方のお母さんは子供が病気とわかっても、そう簡単に診療所に連れては行けない。アフリカの地方で子供が資料所や病院で亡くなるケースは20〜30%にすぎない。今日こそは町の病院に連れて行こうと、夜明け前の4時、子供を背負って家を出る。真っ暗な草むらの壁が両側に迫るあぜ道を、幹線道路まで10キロ歩き、日に一度しかないトラックの荷台に乗る。トラックは、アフリカの常で、途中で故障するかもしれない。途方にくれる親子の横を援助団体の車が通り過ぎるかもしれない。彼女は、村の金持ちのようにヒッチハイクをすることを知らない。お昼前、病院にたどり着いた時には、子供は瞳を大きく見開いて、もう息は絶え絶えになっている。でも病院には酸素がない。アフリカの小児科病棟は死ぬための場所にすぎないのかと、今なお言われている。
 ところで一方、日本のヤンママは夜中の2時、鼻水と咳の子供を4WDに乗せて、明るくきれいな道を通って設備の揃った救急外来にやってくるだろう。ここで、アフリカと日本の親子の間にある大きな違いに、生活と医療のレベルの違いに気づかざるを得ない。でも、全く違った所で生活しているけれど、暮らしを支える基底は同じであり、母親の子を思いやる気持ちに違いはない。この母親同士、また、さっきの水汲みの子供と塾通いの子供だって会えば仲良くなるだろう。逆に、たとえ地元で活動していても、そこの人の暮らしや気持ちがわかるかどうか、僕には自信がない。車を捨て靴を脱ぎ、裸足になって大地を踏みしめながら、歩いて村にたどり着いたとき、一瞬、アフリカの大地に溶け込め、人々の暮らしの表層に触れることができるかもしれない。

4.民族と歴史

 ルワンダの人たちは19世紀、宗主国のドイツ、ベルギーによって、当時流行していた人類学、骨相学、優生学という科学に合わせて、北(エチオピア)から来た背の高いツチ人と背の低いフツ人などに分類された。日本人をこの人の顔は北方人、あの人の体格は南方人と分類するようなものである。また、ある地方では、牛を10頭以上持っている裕福な者をツチ人と決めたともいわれる。ルワンダにはもっと古い歴史があるのかもしれないが、起源や歴史とは、後から人がその時代に合わせ解釈し、教科書などを使って普及させるものである。独立後も、ルワンダ人自身の権力者が、この民族分類を利用し、権力争いをフツ人とツチ人の民族闘争にすり替え、民族を強調することによって、地域差や貧富の差を隠蔽した。
 外から来た私たち第三者も、彼らの対立を助長しているかもしれない。フツ、ツチと呼ばれる人それぞれから話しを聞くと、どちらも、自分自身をフツ人またはツチ人の代表と見立て、自分たちの被害を強調し、相手を必要以上に悪者に仕立て上げてしまう。ここでは、聞かれる、証言するという行為が、本来民族である前に一人の人間であるはずの個人の意識を抑制し、民族という大きな集団に自分を同一化することを促すことになる。一方の聞く方の私たちも、元役人、農民、漁民といろんな人がいて、いろんなところに住んでいたにもかかわらず、彼らをルワンダからのフツ人の難民として一括して捉えてしまう。
 私たちが直接話しを聞く人は、英語やフランス語を話せる教育を受けた人にならざるを得ない。外国語を話せるということが、本人はそうは思わなくても、現地の言葉しか話さない普通の人から、彼らを引き離す。
 さらに、私たちとアフリカ人が母国語でない英語で話しをする場合、その言葉の文化に引きずられ、合理的、断定的な物言いになって微妙な気持ちを表現できない。彼らエリートに近い人が、普通の人々と意見をどれくらい共有しているか、見極めるのは難しい。普通の人は、建て前でない本音としての自分の政治的な意見を、とくに外国人が相手だと話したがらないだろう。


5.子供たちの夢と援助

 大きくなったら何になりたいと聞いたら、難民キャンプの女の子は「シスター(看護婦)」、男の子は「兵隊」と言った。彼女が看護婦さんになって医療援助を受ける必要がなくなる日が、彼が兵隊にならなくても他の仕事に就けるような平和な日が早く来ることを願わずにはいられない。5才の女の子は、「わたしはひこうきになりたい」と屈託のない笑顔で叫んだ。子供は人だけでなく、何にでもなれる。彼女はルワンダに飛行機で自由に帰れることを願っているのか。彼女には、自分の宿命や無力さを自分自身の想像力で乗り越えようとする朗らかで強い精神力がある。そんな彼女を前にして、
高い通貨の飛行機で自由に難民キャンプにやって来て、彼女たちを「フツ」「難民」という枠の中で見て、悲劇を探し出そうとしている自分が恥ずかしくなる。私たち大人の欲望の結果である戦争や開発がもたらす人間の敗北は彼女のような子供たちがいる限り避けられるのだろう。
 さだまさしの「風に立つライオン」では、援助に来ている日本人が風に立つライオンという主人公になり、ケニアの人たちがキリマンジャロやビクトリア湖とともに、彼を飾る風景になっている。現地でがんばっているこの日本人医師やこの歌詞を書いたさだまさしが問題なのではなく、問題なのは、これを聞いて、ロマンやナルシシズムを刺激され、国際協力に魅せられる人の心性である。ライオンはそこにすむ人たちであって、援助は、風でよい。名もなく、どこからともなく吹いてきて、診療所に来る人や村で集まって来る子供たちだけでなく、家の片隅で横たわったまま、外に出られない老人や子供たちにも、心地よい風を送り、いずれ知らないうちに静かに去っていく風であれば良いと思う。



ご意見・ご感想はこちら
人気投票 感想BOX


[ HOME ]