[ 自由・文芸 ]

柄谷行人氏はこう書いている。「ここ何年間か「必要のみ」という言葉が私の頭の隅で鳴っていた。必要という語がひどく鮮やかに映ったのである。それは必然という語であってはならなかった。ただ必要であり、そして必要が生み出すものだけが必然なのだ」。


 【投稿作品】文学的断片

奥山峰隆o


人を受け入れるということについて

 誰かが人を受け入れるということは、その人を馬鹿にしないことだ。馬鹿にするということは、拒絶するということだ。だから、誰かを馬鹿にしないということが、その人を受け入れるということだ。拒絶しないということが、受け入れるということだ。「気持ち悪い」というのは拒絶されるということだ。だから受け入れられれば、それは「気持ち悪くない」に変わる。だが、どうしたら受け入れられるだろうか。それは、自分が「気持ち悪い」ということから、眼をそらさないことだ。それは、いいかえれば自分が受け入れられないということから、眼をそらさないことだ。そして、その不安に耐えること。それは、苦しい。だが、その苦しみを自力で乗り越えなければ、受け入れられない。なぜ受け入れられないのかを――なぜ「気持ち悪い」のかということに、自分なりに答えを出さなくてはいけない。当たり前だがいっぺんに正確な答えなどでない。何遍も障害に、つまり拒絶されながらも、なんとか生きて答え(言葉=文学)を矯正し、修正していかなくてはならない。それは人のいいなりになることとは、全く違う。2004.5.30

慟哭

 なにも知らなかった。知れない大きな裂目がこの世界にあることが、実感できないとき、俺は一塊の馬鹿になった。知らないからどうしても実感できない。それがつらい。この世界に傷口が、遠いところにある。そして世界に傷があると知ったというならばせめて、そっとしておかなくてはならない。慟哭とは何か、遥か遠くに聴く。2004.5.31

苦しみとは何か

 「情けない」とは良い行いをする行動力がないということだ。マルクスは「ドイツイデオロギー」で存在(行為)が意識(心)を規定するといった。だから行動力が、すなわち心だ。広辞苑で「自業自得」という言葉を調べてみた。「自らつくった善悪の業(行為=心)によって、その身にその報いを受けること」とある。自業自得、つまり自ら為した悪がその身に受ける報いとは苦しみとはいわない。いや、それは苦しい。苦しいのならばそれは苦しみなのではないのか。なぜそんなことをしてしまったのか解らないで悪いことをしてしまうことがある。そのものは永久に許されないのか。良いことをする行動力をつけたとしてもそれは許されないのか。「慈悲」とは広辞苑によると「情け」であるという。良い行いをする行動力がつけば、それは「情け」がある、ということではないのか。情けがあるのなら許してやれないものか。良い行いをした者――良い行いをする行動力のあるものは平等に幸福になる権利があるのではないのか。そうであるとしたら、それが叶わなかったら、それこそ本当の苦しみだ。「慈愛」を広辞苑で引く。「慈しみ愛すること」とある。慈しみとは何か。広辞苑で引くと「慈しむこと」とある。これでは解らない。自分で考えてみる。私は以前「慟哭」という短い文章を書いた。それを繰り返すと「なにも知らなかった。知れない大きな裂目がこの世界にあることが、実感できないとき、俺は一塊の馬鹿になった。知らないからどうしても実感できない。それがつらい。この世界に傷口が、遠いところにある。そして世界に傷があると知ったというならばせめて、そっとしておかなくてはならない。慟哭とは何か、遥か遠くに聴く」というものだ。「慈しみ」とは、「傷」をそっとしておいてやるということだと私は考えている。そして愛してやることが「慈愛」なのだと思う。2004.6.1

輪廻転生

 三界六道というものがあるらしい。三界とはすなわち欲界、色界、無色界がそれだ。六道というものは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上がそうだ。輪廻は生きとしいける者が三界六道を生き返り死にかわること。だがそれは違う。われわれは一回限りの生だ。そしてその生きた「生」の中で、三界六道を死にかけて、生きかえりのたうちまわる。修羅場とは天国と地獄の瀬戸際に位置する。修羅場をくぐるとは地獄を見て生き返ることだ。そして天上に少しずつ近づいていく。本当に尊い命。2004..6.2

意味をはぎとれ

 中上健次氏は柄谷行人氏についてエッセイでこう書いている。「一言で言えば、柄谷行人の文章は、絶えず裏に、この真摯さ、つまり嘲弄を受けて耳ふたぐこともできず、絶句する息の音がある。それは、物の、嘲りだ。いや、物、それ自体、この世界、それ自体だ。人々は、それに、意味づけをし、説明した。それは言ってみれば、もっとも安易な耳のふたぎようだ。彼は、意味をはぎとる。説明を拒否する」。意味とは、この世界の自然のありようから、逃げるための道具だ。意味付けするということは、この世界=自然から逃げるということだ。ここで言われている「意味をはぎとる」とはこの世界=自然から逃げないことだ。嘲り(自然)は恐ろしい。その自然の嘲りに耳を澄ますこと。それは死ぬほど恐ろしい。だが、そこから絶対に逃げないことだ。自分に何がなんでもいいきかせる。「意味付けするな、逃げるな」と。そこに、言葉が、詩が生まれる。意味付けすると人を傷つける。2004.6.4 

幻覚と幻聴について(現実について)

 実際の視覚や聴覚が自分に対する中傷に見え、聞こえるものを幻覚、幻聴という。それが酷くなると実際には無い物と音が感受されてしまう。物や音を注意深く、よく見聞きしてみること。それは他者を疑うのではなく、自分を疑うことだ。そして、それには勇気が要る。そしてそれだけが物それ自体、他者、現実についての認識が捉えられる。そしてそれは徹底的にやらなければ治らない。そしてそれは普通のことだ。だが大変なことだ。普通でいるのはなんと大変なことか。なんと尊いことか。なんと難しいことか。なんと価値あることか。2004.6.5

必然と偶然(幻想について)

 たんに偶然そうなったもの、そうだったものが何かの運命によるものだと錯覚してはならない。偶然とは不思議なものだ。なにかの縁があったのかと思ってしまうぐらい不思議なものだ。なんでそうなってしまうのかわからない。運命という言葉には気をつけなくてはならない。それは、全てを飲みこんでしまう幻想だ。しかし何かの縁が全くなかったのかといえば、そうでもないような気がする。柄谷行人氏はこう書いている。「ここ何年間か「必要のみ」という言葉が私の頭の隅で鳴っていた。必要という語がひどく鮮やかに映ったのである。それは必然という語であってはならなかった。ただ必要であり、そして必要がが生み出すものだけが必然なのだ」。この柄谷氏のいう必要だけが生み出す出会いが「縁」なのではないだろうか。運命(意味)ではない。2004.6.5 

文学者とは何か

 文学者とは何なのかと途方に暮れたことがあった。それを真剣に考えた。そして今日たまたま縁があって、「中上健次と熊野」という本を読み返した。以前見えていなかった言葉を発見しそれの重量を感じさせ、私の疑問に答えてくれた。「酷さを耐える事が文学者の勤めである。それを組織し、逆立ちさせてしまう事。一切すべて、をである。壊滅したのは私一人だけではない。例えばフォークナーがそうであり、ジョイスがそうであった」。中上健次氏の言葉の意味が今日ハッキリわかった。そうであれば必死に「酷さを耐える事」を生きている人間は皆詩人だ。様々の人々の違った出自(環境=自然)からその生き様を、それそれの独創的な表現方法で清い精神を謡う。自然、つまり鈍色の黄昏の輝きを映す詩を謡う。柄谷行人氏がこういっている。「人間は社会的に措定された存在であることは疑いなく不可避的な事実だが、そのとき固体がつねに何かを奪われているように感じていることも疑いのない事実だ。マルクスが自己の生産物が他者に属してしまう人間をプロレタリアートとな名づけたように、ぼくらは自己の思念が社会的流通言語(散文)に属していることを苦痛に感じる人間、あるいは事実上その社会的言語を用いる他ないにもかかわらず、そこに満たされることなのないしこりを意識に残留させていく人間を、詩人とよんでもいい。この意味では、実際に詩を描こうが書くまいが、人間は詩人であるほかない」。2004.6.6

         
自己をなくせ

 柄谷行人氏と福田和也氏との公開対談「21世紀の世界と批評」を見てきた。非常に難しい話でついて行けないところもあったが、柄谷氏の言葉でハッキリ記憶に残っているのは、「自己」とは「遅れ」ということだ。「自己がない」という表現が昔文学、思想の世界で流行ったことがあった。氏が、たとえていたのがEメールのことだ。自分が他者に何かEメールを送る。そしてしばらくするといいたりないことや、或いは違和感が残る。この違和感はしこりのようなものだ。だから、言葉を足したり引いたりして急いで再度、修正して書き送ったりする。この違和感が、すなわち「遅れ」だ。いわゆる自己(意識)とはこの違和感のことだ。この違和感をなくすために、言葉を修正するのだ。だから日々われわれは新しい言葉を発明し発見する。
 ところで、一番当てにならないのが、人の第一印象だ。たぶんこんな感じの人だろうと高をくくって見てしまいがちだが、実際のその他者と第一印象は、大きくずれていたりして、無関係であることが多い。われわれは知らずして一瞬失礼な第一印象を他者へ投射してしまうことがある。そして、違和感がやってくる。この遅れは不可避的なものだ。人間は必ず遅れる。それは自己意識が、しこりが必ず発語(行為)のあとに残るということだ。われわれにできることは、この遅れ、しこりをなるたけ早く解消するということ。それは、他者の定義(印象)を、それ自体に即して矯正していくということだ。そしてそれが「自己」(意識)をなくすということだ。2004.6.8

文学者の幸福

 受け入れるとは、馬鹿にしないということだ。それ以上でもそれ以下でもない。まっとうなことだ。馬鹿にされないということが人間の幸福の最低限の条件だ。文学者も人間なので、というより人間は文学者であるほかないので、これは一般的な他者との関係における最低限の幸福なのではないだろうか。そして個人としての他者とのコミュニケーションによって結び付く喜びも、また、あるのではないだろうか。もちろん文学者は人を馬鹿にしてはならない。人を馬鹿にするのは、自分が馬鹿にされていると思う(感じる)からだ。人から馬鹿にされていないのなら馬鹿にする必要などあるものか。いや、そのような消極的なことではなく、端的に人を馬鹿にしてはならない。でもやはり人から馬鹿にされないだけでも大変なことなのだ。2004.6.8

イメージについて

 用心深い余り、最悪のイメージを想像しすぎるのは、逆効果になる場合がある。最悪のイメージについては余り自分に強いないほうが良いということだ。たとえば、村上龍の『五分後の世界』の後半で戦闘シーンがあり軍人ではない主人公に兵士が次のようにいう場面がある。「〈略〉だが恐怖で目を閉じてはいけない、俺を見ていなくてはいけない、もっとも大切なことがある、絶対に悪い想像をしてはいけないということだ、最悪の状況をイメージしたりしてはいけない、敵に囲まれて何時間もそのまま息をこらして潜んでいなくてはいけないような場合、戦闘になって追いつめられたような場合、負傷した場合、絶対に悪い想像をしてはいけない、大丈夫だ、と自分に暗示をかけるんだ〈略〉」。これはとても大事なことだ。われわれは失望しないために最悪の事態を想定して物事を計画することがある。しかし、実践的に行動する場合、最悪のイメージに拘っていると、身動きが取れなくなる。だから村上龍氏の書くように、目の前の一番大切な、つまり取り敢えず、今、必要とされる物事に集中し、よく見ることだ。イメージは幻なのだから、現実のほうが当然、大事だし優位に立っていなくてはならない。要は切り替えの問題だ。2004.6.8

引用――『教祖の文学』坂口安吾

 文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもっていてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとって行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。2004.6.9

 



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